日常を回す
あ、暑い…。暑すぎます…!地球温暖化、ここに極まりという暑さです。最近は外の気温があまりにも高すぎて、日々の楽しみにしていた散歩にも行けず、いじけるように家にずっといます。特になにをするわけでもなく家の中でボケーっと過ごしていると脳が暇を持て余しているのか、夏に関連した記憶が勝手にポツポツと浮かんできます。
ベッドに寝転がりながら浮かんでは消えていく記憶たちを眺めていると、記憶というものは自分の意志をもって思い起こされるものではなく、脳によって勝手に思い起こされているもののように感じてきます。記憶を思い出す時、さも自分の手柄のように錯覚してしまいますが、多くの場合はただ脳が眼の前の何かしらの影響によって気まぐれ的に記憶を思い起こしているだけで、そのプロセスに私の意志なるものは全く関わっていないような気がしてなりません。思い出すとは脳が自動的に見せてくれている映像なのかもしれない、そのように考えると脳に体をコントロールされているようでちょっと怖いですが、呼吸や代謝のような生理現象的なものなのだと捉えるとそこまで怖くもない。むしろ怖いを通り越してスッと腹に落ちます。
思い出すという行為は自分の意志によって記憶を脳から呼び起こすという行為ではなく、きっかけは作ったのでどうか思い出してください!と脳にお願いするお祈りに近い行為なのかもしれません。勉強とは脳という神様にお供え物しているみたいな感じだったりするのかも。
本来書きたかった話題から大きく脱線してしまったので、話を戻します。私には夏の季節になると必ず思い出してしまう記憶というものが何個かあります。夏祭りで友人と仲違いしてしまった記憶や花火大会で迷子になってヤンキーに絡まれてしまった記憶など、夏という季節を感じると自動的に脳の奥底から呼び起こされてしまう記憶があるようなのです。その記憶の中でも特に鮮明に思い起こしてしまう記憶、それが夏休みに祖母の家で過ごした日々の記憶です。
私は子供の頃(小学生~高校生ぐらい?)、夏休みに親に引き連れられて田舎に住んでいる祖母の家によく遊びに行っていました。一人離れて暮らしている祖母に孫の顔を見せるためというのが主な理由でしたが、喧騒的な都会から少し離れて子供の心を休ませるといった親の気遣いもあったかと思います。
私は祖母の住んでいる地域が好きでした。綺麗な町並みや美味しい郷土料理など個人的に魅力的だと感じる部分が多い地域だったので、それだけ好きになる理由も多くありましたが、その中でも特に心惹かれていたのは祖母の家の近くを流れていた川でした。
祖母の家の近くには小さな川が流れていました。その川は本当に美しい川で、流れる水はとても冷たく、泳いでる魚達と目が合った感じてしまうほど水は透き通っていました。川の向こう岸は川の流れに沿うように森に覆われており、その森も畏敬の念を感じてしまうほどの迫力がある森で、初めてその川を訪れた際は川の綺麗さと森の迫力から思わず「おぉ…」と声が出てしまったほどです。私は凄まじい川を発見したと思い、家族全員にあの川はすごい!と感動を興奮気味に伝え、隙あらば引きずるように川に連れて行ったりしていましたが、皆死んだような目で川を眺めていたので意外と普通の川だったのかもしれません。他の家族にとってはパッとしない川のようでしたが、私はその川に心を奪われていました。
祖母の家に到着すると祖母への挨拶や先祖の墓参りなどの主要な用事を済ませ、居間で和やかに談話している他の家族を尻目に私は一目散に川へ。川のほとりに到着すると、私のお気に入りの場所である川の中央にある小さな岩へと向かいます。素早く靴と靴下を脱ぎ捨て、ズボンの裾口をクルクルと膝辺りまで巻き、川に足を入れる。今年の川の水も冷たいなーと独り言を呟きながら、足場の悪い川の中を裸足でヨタヨタと歩いていく。目的地の小さな岩に到着するとその岩によじ登り、腰を下ろして、空と川の地平線をジーッと眺めなる。時折、視線を降ろして水面を優雅に泳いでいる足を見る。ずんぐりむっくりとした足が魚の真似をするようにゆらゆらと水面を泳いでいるのはどこか滑稽で面白い。綺麗な空、美しい川、ずんぐりむっくりとした足をグルグルと回るように見ていると飽きが来ないのか、気がつくといつも黄昏時でした。
特になにかするわけでもなくただ暇を持て余し、川と空を眺めていただけの時間なのに、私はあの時間がたまらなく好きでした。ただ、その特別さを上手く言語化することができず、夏の時期にノスタルジーな感情と共に川の記憶が思い起こされる度にあの時間は一体なんだったんだろうとモヤモヤと考えていました。
臨床心理士の東畑開人さんの著書『居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書』の中で円環的時間という特殊な時間概念がでてきます。円環的時間とは春夏秋冬のように同じサイクルがグルグル繰り返される時間のことをいい、学校や社会のような目的や目的意識のための時間(直線的時間)とは違い、ただグルグルと回っていくだけの時間を表現した言葉です。
思い返せば、私にとって夏休みは目的意識に満ちた直線的時間のど真ん中にある学校から一時的に開放され、円環的時間=日常を取り戻すことのできる大切な期間だったように思えます。この場で上手く立ち回るためにはどうしたら良いのだろうか…、そのような面倒なことを考える必要もなく、ただダラダラと川と空の地平線を見ていられたあの時間が学校生活の中で傷ついていた心を癒やす役割を担ってくれたのだと思います。
生活が上手く回らなくなる時、日常も上手く回らなくなっていきます。学校に通えない日が増えるほど、不眠は悪化していきましたし、好きな趣味を楽しむことすらもままならなくなっていきました。必死に学校に通おうと努力すればするほど日常がボロボロになっていく、そのような感覚がありました。生活は日常によって支えられています。日常という下支えがない状態で生活を立て直すことは困難です。ひきこもりという生活をしているとそれに嫌でも気付かされます。
とにかく日常を回せる状態にする。直線的時間=社会に戻っていくために、円環的時間の中で心と体を回復させながら、日常を取り戻していく。日常を淀みなく回せるようになった先に生活の回復がある。漠然とそんな気がするのです。
暑さから現実逃避するためにこんなことをベッドに寝転がりながらウダウダと考えたりしていました。現状は日常すら上手く回せていないので、生活の回復は先の先って感じです…。うー怠惰!しかし、本当に暑いですね。皆様、熱中症にはくれぐれもお気をつけくださいませ。それではまた来週。バイナラ!
不自由なひきこもり
ブログを開設して約1ヶ月、投稿する文章をあれやこれやと考えていたら、あっという間に一ヶ月も経っていました。もしかして今なら文章がスラスラと書けるのでは…!という何の根拠もない思い込みでブログを開設したのですが、思い込みはどこまでいっても思い込みということらしく、スラスラどころか全くもって書けませんでした。
私は昔から心の内を言葉にするのが苦手です。簡単に言葉にできないほど思考が混乱しているのか、それとも言葉が身体のどこかに引っ掛かってしまっているのかは分かりませんが、とにかく心の内をスムーズに言葉にすることができません。炭酸の泡のようにポコポコと思いや考えは浮かんできても、それを言葉にすることができない。言葉にしようとウジウジと悩んでいる間に泡はこちらのことなどお構いなしで消えていってしまう。泡が消える前に言葉にしなければ!と焦って身体から押し出した言葉はどれも支離滅裂なものばかり。
ある時期までは発した言葉が支離滅裂だったとしても特に悩まなかったような気がします。幼少期の頃も学生の頃も悪文、乱文、支離滅裂な言葉を平気でそこら中にばら撒いていましたし、読書感想文なんて「多分おもしろかった」という凄まじい一言で提出してました。多分おもしろかったとは一体何なんだという感じですが、心の底から湧いてくる感情を言葉にできようができまいが、当時の私はどうでも良かったのだと思います。
ひきこもりになった当初、「どうしてひきこもりになったの?」ということをよく聞かれました。ひきこもり経験がある方ならば一度は投げかけられたことのある質問なのではないでしょうか。この質問の厄介なところは自分自身も何故ひきこもりになってしまったのかイマイチわからないところにあります。もちろん、理由は必ずありますし、薄っすらとならわかります。ただ、他人に説明できるほどハッキリとはわからないのです。
ひきこもりになった理由は粗削りで取り散らかってしまっています。そのゴチャゴチャとした理由を相手に伝わるように説明するためには、ある程度形を整えてあげる必要があります。形を整えるためにと躍起になって削ろうとしている部分も含めひきこもりになった理由なのに、削らないと今の私には説明することができない。それがどうしても納得できなくて、「どうしてひきこもりになったの?」と質問された時は必死にお茶を濁していました。今振り返れば、支離滅裂でもありのままを説明すればよかったと思うのですが、ひきこもりになってしまったことは自分にとってすごく重要でシビアな問題だったので、しっかり心の内を説明したいという気持ちが強かったのだと思います。
どうすれば自分の心の内を相手に完璧に説明できるのだろうかと考えるようになってから、少しずつ言葉の扱えなさについて悩むようになっていきました。ひきこもりになる前は支離滅裂な言葉をそこら中にほっぽり投げていたのに、悩み始めた途端にそれができなくなる。悩みというのはすごいものだとちょっと感心してしまうほどの様変わりようでした。心の内を言葉にする練習として日記を書いたり、映画の感想を書いたりと色々と試していますが、未だに下手っぴのままです。
意味が成立しているかなんて考えず、叫ぶように、喚くように、怒鳴り散らすように言葉を使いたいです。赤ちゃんが気に食わない食事をひっくり返すように言葉を使いたいのです。他人が理解できるかどうかなんて無視して言葉を使えるようになれば、もっともっと人生を自由に生きれるようなそんな気がするのです。不自由で偏屈なひきこもりから、ただただ自由なひきこもりに私はなりたいのです。